朝4時30分に目覚める。まだ眠かったので、あと1時間だけ寝ようかと考えたが、今日は少し距離を走るので早目に起きる事にした。昨日の朝は風邪をひいたようで体調が少し悪かったが、今朝はすっかりと良くなっていた。テントから出ると空は今にも雨が降りそうな曇り空で、雨は止んでいたが夜中に降っていた雨が風で管理棟のひさしの下まで巻き込んでいて、テントは濡れていた。マットやシュラフをたたみ、テントを撤収する。昨夜のテントの設営は風が強くて大変だったが、今朝は風がおさまっていたので撤収は楽だった。テントを固定していたコンクリートブロックを返却し、朝食に昨日羽幌のコンビニで買ったおにぎりを食べる。 このキャンプ場は日本海に面した高台の上にあり、晴れていれば美しい日本海が一望できるはずだが、今にも雨が降り出しそうな曇天では写真を撮ろうという気すら起きず、結局一度もキャンプ場から日本海を見に行く事はなかった。
向かい風ではあるが、平坦な古丹別までの道を走っている時、今日はどのように走ろうかと考えた。というのは、月形のキャンプ場で出会った女性のチャリダーの走りがとても気になっていたのだ。彼女は決して早くは走らないが、休憩時間をたっぷり取って、走る時間を延ばして距離を稼いでいる。私の計算では彼女の休憩も含めた平均時速は12.5km/hだ。そこで出発から2時間単位で区切り、25km走ったら2時間に達しない残りの時間は休憩すれば… 例えば1時間30分で25kmを走ったとしたら、2時間までの残り30分を休憩すれば、自動的に休憩も含めた平均時速は12.5km/hになる。彼女がそのように走っていたかどうかはわからないが、今日はその走り方を実践する事にしてみた。ちなみに彼女はこの時、私の前方100km付近を走っていたが、もちろん神ならぬ我が身には、そんな事は知る由もなかった。 古丹別の町にコンビニがあったので、食料調達に入ろうとしたところ、6時10分なのにまだ開店していなかった。ここから先は美深までコンビニがあるとは思えないし、食料といえば昨日羽幌のコンビニで買ったパンしか残っていないが、まあ何とかなるだろうと考え、そのまま先に進む事にした。それにしてもこのあたりのコンビニはいったい何時に開店するのだろう?
三毛別熊事件復元現場に行こうかとも考えたが、三毛別熊事件復元現場は古丹別から18kmも山奥に入ったところにあり、さすがに今日は山越えで距離も走るので断念する。ちなみに古丹別から三毛別熊事件復元現場までの道道437号線18kmは通称ベアロードと呼ばれており、道端の至る所に熊の看板やイラストがあるらしい。しかしイラストだけでなく、本物の熊も出没するらしいので注意が必要だ。 古丹別から先は緩やかな登りが続くと思っていたが、実際にはアップダウンがかなりあった。雨上がりで路面は濡れていたが前方の空は明るく、今日は雨は降らないのではないかと期待させた。しかし天気予報では16時まで雨だったので、きっとどこかで降りだす事だろう。スタートから27km走ったところにパーキングがあったので、7時10分から休憩する。5分でパンを食べて、15分間旅の日記を書く。そして出発からちょうど2時間経過した7時30分に休憩を終えて出発する。案外この2時間で25km走るという作戦もいいかもしれない。彼女が知ったら怒られそうだが、私はこれを亀作戦と呼ぶ事にした。
撮影後、私はこのキタキツネに何か食べ物をあげようかと考えた。フロントバッグにはパンが入っているが、今日はコンビニに立ち寄れなかったので食料が少なくて困っていたので、キタキツネにあげる分はない。仕方なく私はそのままキタキツネの方に向かって自転車を進めると、キタキツネは残念そうに道端の藪の中に身を隠した。
霧立峠の頂上まであと4kmくらいになったところで、ようやく峠の登りが始まり、頑張って登る。すると前方から女性のチャリダー2人組みがやって来たので手を振ってすれちがう。チャリダーに女性も多くなったものだと感心すると同時に、彼女たちは今日、どこから走ってきたのか不思議に思ってしまった。このあたりだと朱鞠内湖キャンプ場しかないはずだが、それでもかなり離れているような気がする。
私はこの霧立峠のパーキングで給水するつもりでいたが、残念な事にここのトイレの水は飲めなかった。もっとも予備も含めると、あと500ccほどあるのでまだ大丈夫ではあるが、これだけでは美深まで持ちそうにないので、どこかで給水したい。このパーキングでパンを食べて休憩するが、雨が激しく降り始めたので、レインスーツを着て休憩を早目に切り上げ、9時25分に出発する。 霧立峠を出発すると、すぐに幌加内町の標識が目に入った。ここのカントリーサインは−41.2℃の最低気温記録だ。この−41.2℃の最低気温は気象庁の公認記録ではなく、また日本一でもないが、近年で最も低かった気温である事は間違いない。ちなみに気象官署で記録されている日本の最低気温は1902年1月25日に旭川市で記録された−41.0℃だ。そして公認ではない参考記録の日本最低気温としては1931年1月27日に歌登町で記録された−44.0℃というのがある。これらはいずれも戦前の古い記録だが、幌加内の記録は1978年2月17日に記録されたものだ。ちなみに同日、旭川や枝幸町で−38℃の最低気温が記録されている。 この幌加内町のカントリーサインを見ながら思ったのだが、もし幌加内町で−41.2℃の最低気温記録を破る最低気温が出たら、カントリーサインは変わってしまうのだろうか? きっと最低気温記録も重要な観光資源だろうから、きっと変えてしまうに違いない。
雨竜と言えば3日前に通過した雨竜町を思い出させた。なぜ同じ雨竜という名前が付いているのか不思議に思っていたが、どうやら雨竜町を流れる雨竜川の上流がここになるようだ。雨竜川は石狩川に合流して石狩湾でようやく海に流れ出るので、相当長い旅をしている事になる。そう言えば、この朱鞠内湖の付近だけ天気の管区が、取って付けたように夕張や岩見沢と同じ空知になっているのは何故だろうと、ずっと疑問に思っていたが、それは石狩川の流域という理由だという事がようやくわかった。ちなみに雨竜川の名前の由来は、ウリウという名の太古神から付けたという説と、アイヌ語のウリオペッ(鵜がたくさんいる川)から名付けたとの二説あるそうだ。 ここからは国道239号線を離れ国道275号線に入る。この国道275号線は3日前に晴れた北竜町のひまわり畑を目指して走っていた道でもある。初めて走る道ではあるが、何となく懐かしく感じてしまった。北海道は国道が縦横無尽に走っているので、色々な所で懐かしい道に出逢ってしまうから不思議だ。
私は道端に自転車を倒して止めると、スタンドの取り付け部分を確認した。するとスタンドを自転車のチェーンステーに取りつけるネジが緩んでいる事がわかった。私はどうにかしてこのネジを締めようとモンキーレンチやプライヤを取り出して悪戦苦闘したが、どうしても締める事ができない。しかしこの状態のまま走ると、グラグラになったスタンドが振動でスポークに投身自殺でもされたら大変な事になってしまうと心配したが、どうやらそれはなさそうだったので、今はこのまま走る事にして、キャンプ場に着いてからゆっくりと修理する事にした。 さらに国道275号線を走ると、全長275mの短い朱鞠内トンネルを越え、朱鞠内の町に着いた。この町には鉄道の駅のように見えるバス停があったので写真を撮る。どうやらここは廃線となった旧国鉄深名線の朱鞠内駅の跡のようだ。この深名線は深川から幌加内、朱鞠内を経由して名寄までを結ぶ線路だったが、1995年に廃線となってしまった。このバス待合所の建物の中にトイレがあったので、ここでようやく給水する。どうもこの苫前から美深に抜けるコースには給水できる場所が少ないようだ。
朱鞠内湖キャンプ場へ向かう道道528号線への分岐を過ぎると、国道275号線はいきなり急な傾斜の登りが始まる。朱鞠内の町から80mほど登るので仕方ないが、それでも登りは大変だ。やがて10時50分に出発から74km走ったところにある朱鞠内湖パーキングエリアに到着。今回のパートは下りか平地がメインだったので楽だった。ここのパーキングのトイレの水も飲めなかった。朱鞠内のバス停で給水できなければ大変な事になっていただろう。
朱鞠内湖パーキングエリアから先もアップダウンは続いた。森の中のアップダウンの道を走っていると、時々、朱鞠内湖が開けて見える。こういった場所で写真撮影するが、地図を見ていると目の前に見えている朱鞠内湖は全体のほんの一部で、実際には朱鞠内湖はとてつもなく大きい事がわかった。なんせ朱鞠内湖は2373ヘクタールの広さがあり、日本で一番大きいダム湖なのだ。これは東京都千代田区の2倍以上の面積でもある。しかも朱鞠内湖はリアス式海岸のような入り組んだ湖岸をしており、その入り組んだ湖に大小13の小島が浮かんでいるので、その全体を眺望する事ができないのだ。
お互いに健闘を讃えあって、雨の中を出発した。やがて12時過ぎに母子里の町に到着。このあたりの町は添牛内や朱鞠内など、コンビニのない町ばかりだったが、ここ母子里も例外ではなくコンビニはなかった。母子里には用はないので、そのまま素通りしようとした時、クリスタルパークという標識が見えてきた。ツーリングマップルによるとクリスタルパークは母子里の町を抜けて2kmくらい走った先にあるはずだったが、実際には母子里の町外れにあった。またツーリングマップルのいいかげんな地図に騙されるところだった。
母子里クリスタルパークではクリスタルピークスの写真を撮るだけで長居はせず、すぐに出発する。この公園には「日本最寒の地到達証明書」発行機があるとの事だったが、それには気付かなかった。出発するとすぐに美深峠の登りが始まった。相変わらず雨は降っていたのでレインスーツを脱ぐ事ができず、汗だくとなりながら峠を登った。標高300m程度の母子里から140mほど登り、12時50分にようやく美深峠の頂上に着いた。頂上でも雨が降っていたので、写真撮影だけしてすぐに出発する。
不幸中の幸いにも、パンクした場所が泉パーキングエリアの真横だったので、そのまま泉パーキングエリアに入って13時ちょうどからパンク修理を開始する。自転車からサイドバッグを外して後輪も外し、パンク修理にとりかかる。タイヤレバーを使って後輪からチューブを取り出し、ここで念願のパンク修理中の記念写真を撮影する。チューブを確認するとパンクした場所はすぐにわかった。かなり大きなリム打ちパンクだ。私はいつものようにパッチとゴム糊を使ってパンク修理するがうまくいかない。どうもチューブが裂けている場所が大きすぎてパッチを当ててもすぐに空気が抜けてしまうようなのだ。2回ほど挑戦したが、どうしてもうまくいかなかったので、予備のチューブを使用する事にした。予備のチューブは昨年から携帯するようにしていたが、これだけ活躍するとは思っていなかった。予備のチューブはパンクしていないので、すぐに復活。空気を入れ直し、サイドバッグを自転車に取り付け、出発準備が完了した時には14時10分になっていた。
せっかくの亀作戦も予定外のパンクの為に予定より40分遅れとなってしまった。私はどうにか遅れを取り戻そうと、パンク修理が完了するとすぐに出発し、ピッチをあげて走った。しかしさすがに11時過ぎにパンを1つ食べて以来、何も食べておらず、お腹が空いてハンガーノックになりかけていた。しかも困った事に今朝コンビニに立ち寄る事ができなかったので、自転車には食料が積んでいないのだ。とにかく美深まで走らないとコンビニはないので、仕方なくお腹を空かせながら美深まで走る事にした。途中、写真を撮りたくなる場所が何ヶ所かあり、その度に自転車を止めて写真撮影しようとするが、スタンドがなくて自転車を立てる事ができず、悲しい思いを何度かしてしまった。
さらにおじいさんは、私にパッチも出せと言ってきた。どうやらこのおじいさんは、こんなに薄くて細いスポーツ車用のチューブを扱った事がないようで、専用のパッチがあると思っているらしい。しかし私が差し出したパッチは自転車屋に備えつけのパッチと同じ物だったので、自転車屋のパッチで修理する事となった。私はここまでのやりとりを見ていてたいそう不安になってきた。このおじいさんは本当にパンク修理できるのだろうかと疑問に思えてきたのだ。しかし私は自分でパンク修理する事はあっても、専門の自転車屋さんがパンク修理するところを見た事がなかったので、せっかくだからその技術を盗んでおこうと、おじいさんの一挙手一投足に注目する事にした。 おじいさんはまずチューブの私がパンク修理したパッチを剥がすと、丁寧にヤスリをかけはじめた。私の場合、気持ち程度にしかヤスリをかけないが、驚いた事におじいさんは、かなり丹念にやすりをかけていた。そしてかなりたっぷりとチューブのパンクしている箇所にゴム糊を塗って、さあここからが技術を盗む所だと思って注目していると、おじいさんはゴム糊を乾かしている間に、引き出しをゴソゴソと探し回り、何やらチューブを何本か持ってきた。そのチューブを見ると700−25cや700−28cと書かれたチューブがあった。私の欲しいのは700−23cだったが、700−25cでもまったく問題ない。ただし、私が使っていた薄手のチューブと異なり、かなり分厚いチューブで、「何年前の?」と言いたくなるようなチューブばかりだったが、私はすぐにそれを買う事にした。あるならあると最初から言ってくれれば、時間を無駄にしなくて済んだのにと思いつつ、パンク修理の技術が盗めなくて少し残念に思った。チューブはおじいさんの言い値で1500円とふっかけられたが、こんな田舎では仕方ないだろう。町中で買えば半額程度で買えるはずだが。 予備のチューブが手に入ったので、15時ちょうどに自転車屋を出発し、意気揚々と国道40号線を北に走り始めた。そしてコンビニに立ち寄るのを忘れたのに気付いたのは、それから5kmも走ってからの事だった。さすがにこれだけ走るとUターンしようという気がおきず、そのまま北上を続けるが、すぐにお腹が空いてハンガーノックになりそうになってしまった。この先、どこにコンビニがあるだろうと地図を見るが、20km先の音威子府までコンビニはなさそうだ。しかし途中、道の駅「びふか」があり、この道の駅で2年前にコロッケを食べた覚えがあったので、今年もコロッケを食べようと、頑張って走る事にした。 美深の町から道の駅「びふか」まではすぐだろうと思って空腹に耐えながら走っていたが、予想以上に距離があり、10km近く離れていたのでかなり苦しい走りとなった。15時30分には道の駅「びふか」に到着。お腹が空いていたので、自転車を止めると真っ先に建物の中に入り男爵コロッケを食べる。さすがに空腹だった事もありおいしかった。 この道の駅にはソロのチャリダーがベンチに座って地図を見ていたので話しかける。彼は東京から来た大学生で、6日に飛行機で千歳空港に上陸後、北を目指して北上し、昨日念願の宗谷岬に到着。昨日はさるふつ公園キャンプ場に泊まり、今日は国道275号線を南下して、名寄のトムテ文化の森キャンプ場に泊まるらしい。私はなぜ国道238号線をオホーツク海沿いに走らなかったのかと尋ねると、明日、旭川で大学のサークルのメンバーと合流するとの事で、旭川目指して浜頓別あたりから内陸に入っているとの事だった。 20分ほど休憩して、15時50分に道の駅を出発。今日泊まる場所は、ここ森林公園びふかアイランドでも良かったのだが、個人的には天塩川温泉リバーサイドパークキャンプ場に泊まってみたかったので、天塩川温泉リバーサイドパークキャンプ場まで走る事にした。道の駅から天塩川温泉までは10kmくらいと思っていたが、実際には12km以上あり、おまけに天塩川沿いだというのにアップダウンも多く、とても苦労する。どうにか亀作戦の平均時速12.5km/hを守ろうとスピードを上げて走った。 丘の上まで登った所に天塩川温泉への標識があった。しかし天塩川温泉は天塩川沿いにあるので、ここから標高で30mほど一気に急降下する。明日、再びこの丘を登るのが嫌なので、明日は咲来経由で国道40号線に合流する事にしよう。坂を下まで下ると踏切があり、JR宗谷本線の天塩川温泉駅が見えてきた。この宗谷本線の駅は、例え観光地であっても本当に何もない。駅舎があるだけまだマシな方かもしれない。何となく物悲しく思えたので写真を撮っておく。 天塩川温泉駅から1kmほど走り、止若内橋を渡って天塩川を越えると天塩川温泉だ。キャンプ場はその裏手にあった。16時ちょうどに天塩川温泉キャンプ場に到着。どうにか休憩を含めた平均時速12.5km/hの亀作戦を達成する事ができた。しかしパンク修理などで時間を取られ、後半無理して走ったので、もう体力を使い果しフラフラだった。
テントを張る前に、炊事に備えてまず米を水にひたしておく。そしてそれからテントを設営。テントを張り終えると、今度は昨日断念していた洗濯を行う。昨日のキャンプ場と違ってここはコインランドリーがないが、今夜は雨が降らないとの天気予報だったので、一晩中テント横の柵に干しておく事にした。洗濯している間に一瞬だけ太陽が顔を出した。さすがにのキャンプ場は西側に山がそびえているので夕陽は望めないが、一瞬だけでも顔を出した太陽を撮影しておく。 17時10分から炊事開始。今日は一度もコンビニに立ち寄れなかったので、カレーとわかめの味噌汁のみという質素な食事だ。17時40分から食べ始め、18時には後片付けまで完了する。このキャンプ場のまわりはリバーサイドパークという公園があったので、散歩がてらに寄り道しながら天塩川温泉に向かう事にした。夕焼け空でも見えないかなと期待していたが、残念な事に再び空一面雲で覆われてしまい、夕焼け空は望めそうになかった。
18時過ぎから天塩川温泉に入る。ここの温泉は露天風呂が広くて気持ちがいい。やはり先程私が走り抜けた場所は露天風呂の目の前で、露天風呂側からは丸見えの場所だった。18時40分から20時30分まで、ジュースを飲みながら温泉の休憩室で旅の日記を書く。ここの休憩室はとても広くて居心地がいい。やはり旅の日記はテントの中で書くより、絶対に温泉の休憩室で書いた方が楽だ。
今日はスタンドの異常やパンク騒動、自転車屋で油を売っていたりと色々あり、なおかつ峠越えの140km近くも走ってきたので、とても疲れた。天気予報では今夜は曇りとの事だったので洗濯物は外に干したままだ。今夜も寒くなりそうだったので、暖かくして22時に就寝する。
|