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勝山館ガイダンス施設
上ノ国の町から西に2kmほど、標高159mの夷王山山頂から北に150mほど下った所にある施設が勝山館ガイダンス施設だ。勝山館は1443年に津軽の管領であった安東太郎盛季が南部義政に十三湊を攻め落とされ蝦夷に逃げ、1454年には安藤氏の一族や家臣が再び南部氏に攻められて蝦夷に渡り、その家臣の一人武田信広が15世紀後半に建てたとされる。両側面と正面は寺の沢と宮の沢によって深い急斜面となっている天然の丘陵を利用し、後方は空濠、土塁、柵、搦手門、内部は溝、塀で区画して守りを固めた三段構えの山城は堅牢無比の要塞とまで言われ、16世紀末頃まで松前の大館と並んで蠣崎氏の政治・軍事・交易の拠点として使われた。1596年には勝山館は桧山番所として使われた。しかしやがて経済の中心地は交通の便のよい江差に移り、1678年には桧山番所も江差に移転し勝山館は廃城となった。現在においても発掘作業が継続されており中国産青磁・白磁・染付、国産の美濃焼、越前焼、瀬戸焼など約5万点の陶磁器や金属製品、木製品など10万点余りの出土品が発掘されている。さらに建物、井戸、空壕、橋、柵などの跡が多数見つかっており、これらは現地での立体復元や平面表示と説明板が設置され、勝山館の構造や人々の暮らしぶりを確かめながら散策できるようになっている。さらに有料ではあるが勝山館の成り立ちを解説するガイダンス施設もあり、展示パネルでの説明だけでなく映像コーナーで北の中世史を解説する「勝山館とその時代」が放映されていたり、勝山館の200分の1の復元模型は現在の勝山館跡と容易に比較できるようになっていたり、コンピューターグラフィックスによって勝山館を復元していたりと当時の勝山館リアルに体感できる。またガラス張りの建物からはかつて勝山館のあった山の中腹を見渡せるようになっている。
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勝山館ガイダンス施設の外観
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勝山館ガイダンス施設の内部
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ガラス張りで外がよく見える
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勝山館ガイダンス施設からの景色
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