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機雷殉難の塔
湧別の町から東に3kmほど、オホーツク海に面したポント浜に機雷殉難の塔がある。ここは太平洋戦争中、機雷の処理に失敗し地元住民をはじめとした112名が死亡し112名が負傷するという大惨事が起きた事件現場だ。1942年5月19日に湧別近くのオホーツク海とサロマ湖で続けて2つの機雷が引っかかっているのが発見された。オホーツク海で発見された機雷はすぐにポント浜に引き上げられサロマ湖で発見された機雷も漁船に曳かれてポント浜に引き上げられた。当時はアメリカとの戦争中であったがこのオホーツクの僻地においては戦争は遠い世界の出来事と考えられていた。そこで機雷処理は湧別分団、芭露分団、上芭露分団の警防団の150人が当たることになり、それ以外にも常呂、佐呂間、遠軽など近隣市町村の警防団が参加見学、そして地元住民にも機雷処理を見学させることで戦意高揚につなげようと考え、機雷処理は海軍記念日の前日の5月26日とされた。当日、遠軽からは見学のために臨時列車まで走らせ、田舎町には珍しいほど数多くの警防団や地元住民の見守る中、機雷処理が始められた。サロマ湖から引き上げられた機雷には火薬も信管もなく爆発の恐れもなかった。それで人々は安心していたがオホーツク海から引き上げられた機雷は火薬があるのはもちろん信管も作動していたが、人々はこの機雷も爆発しないと思い込んでいた。2つの機雷は1ヶ所にまとめられていたが、片方ずつダイナマイトで爆破するため2つの機雷を離そうとした。オホーツク海から引き上げられた機雷にロープをかけて多くの警防団がロープを引き、その周りを住民が取り囲む中、砂浜から馬車道まで引きずり上げた。機雷が固い馬車道を転がった瞬間に機雷は轟音と閃光と共に爆発。現場には直径10mの大きなクレーターができると共に近くにいた人は肉片になって四散、また周囲は原形を留めない遺体や手足が散乱し肉片の赤い花がハマナスのように咲いたという。この湧別周辺の男手は警防団として駆り出されたことから、元々生きてゆくことが厳しい北の寒村で多数の村民が一家の大黒柱を一瞬のうちに失ってしまい、残された遺族は大変な苦労を背負うこととなった。湧別村はこの事件の慰霊碑を翌年にポント浜に建立したが波の浸食が激しくなり8年後に湧別神社境内に移設した。さらに50年後の1991年機雷爆発の現地に慰霊碑を建立、爆発した同日同時間に除幕、犠牲者の霊を供養した。これが機雷殉難の塔だ。人が来ることもないようなオホーツク海沿いの辺鄙な場所にあり、場所を知っていなければ気付くこともないだろう。しかしこうした場所で戦争中に起きた大惨事に想いをはせるのも良いだろう。
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機雷殉難の塔の全景
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オホーツク海の海岸沿いにある
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